寂しさを乗り越えた茶白少年 ~ 後編
なーお! なーお!
電気の消えたリビング。突如ケージの中から、甲高くも大きな声が聞こえてきました。
昼間は本当に静かで穏やかだった胡ぶへいの姿からは、想像もできない声でした。
何度も何度も休みなく、我々の寝床から少し離れた場所で胡ぶへいが発する「なーお!」の声は響き渡ります。
驚いた私はあわてて寝床を飛び出し、胡ぶへいがいるケージに駆け寄りましたが、それでも胡ぶへいが「なーお!」の声を止めることはありません。
迎え入れ初日の夜。私は胡ぶへいの鳴き声ではなく「泣き声」を聞いたように感じました。
◆泣き疲れて眠るまで
昨日までと違う。
景色も匂いも、聞こえてくる音も、何もかも違う。
狭い。暗い。寂しい。またボクは、ひとりぼっちなのかな ―――
大きくて、本当によく通る声を出す、胡ぶへい。
もし「ボクの声を、誰かに聞いてもらいたい」という気持ちの表れだとしたら、日比谷公園に放置された時のことを、ふと思い出したのでしょうか。
無事に保護され、ボランティアさんの家でしばし穏やかに暮らしていたとはいえ、もしかしたら棄てられた経験を持つ胡ぶへいの心にある傷は、思いのほか深いものだったかもしれません。
いろいろ考える私の心も切なくなりながら、気づけば夜中の3時。鳴き疲れて、いや泣き疲れて、胡ぶへいは眠りに就きました。
◆とにかくケージから出たかった
翌日の夜も、胡ぶへいによる消灯後の「なーお!」は続きました。
原因こそなんとなく推測できたとはいえ、まだ胡ぶへいを迎え入れて間もない状況では、できることが限られます。
もし我が家に胡ぶへい1頭だけであれば、早々にケージから出すことで目途がついたかもしれません。
でも我が家には、たま胡という先住猫がいます。
だからまだ、たま胡が見知らぬ新入り猫に怯えている間は、安易に胡ぶへいを出すこともためらわれるのです。
たま胡は、我が家に来てからずっと物陰に隠れて「そっとしておいてよ」を貫いていましたが、どうやら胡ぶへいは、その真逆。明るい場所、賑やかな場所が好きで、なるべく孤独を感じたくない、分かりやすい寂しがり屋だったようです。
ボランティアさんとは、1週間ほど様子を見てからケージのカバーを少しずつ上げていこうという話をしていたのですが、胡ぶへいには「徐々に慣らしていこう」という計画に応える気持ちなどなかったようで、夜になるとひたすら、寂しさからくる泣き声をあげ続けるのでした。
ごはんも、お水も、寝床もあるのは分かったから、早くケージから出て動き回りたい。
これが胡ぶへいの願いであることを理解した私は、せめて少しの時間だけでも寂しさを紛らわせてやれればと思い、ケージの中にこぼれていた水を拭き取った後、1つ上の段にいた胡ぶへいを撫でてやろうと、そっと手を伸ばしました。
すると胡ぶへいは、声を止めてケージの段を降り、私が伸ばした手の先へと向かい、そのまま体を預けていく……のかと思いきや、あっという間に私の腕をすり抜けてケージを飛び出し、ためらいもなくリビングのフロアへと駆け出して行ったのでした。
◆はじめてのリビングで まさかの大暴れ
一瞬「しまった!」と思いましたが、胡ぶへいの走り方は文字で表すと「どちどちどちどちどち」という雰囲気だったので(今もそうですが)、意外と簡単に捕まえることができて、少し安堵。
たま胡の寝床は離れたところにあったので、しばらく我が家のリビングで自由にさせてやろうと、私は胡ぶへいから目線を切り、ケージの中に散らばる砂の片づけに集中していました。
しかし、これがいけなかったようで……
片付けが終わって振り返ると、胡ぶへいがいません。
リビングのどこを見渡しても、茶白猫の姿はありませんでした。
まさかと思って天井近くに目を移すと、本棚のてっぺんにある、ほんのわずかなスペースを見つけてちょこんと座っていた、胡ぶへい。
私のことを見下ろしている胡ぶへいに、手を伸ばそうとしたのもつかの間、近くにあったFAXの台を目がけて勢いよく飛び降り、そのまま「ほわー!ほわー!」とイキイキした声をあげながら、ペン立てや書類ファイルを蹴散らし、電気スタンドを吹っ飛ばして、最後は神棚を根こそぎ、なぎ倒してしまいました。
私はすぐさま胡ぶへいを捕獲してケージに戻し、泣きたくなる気持ちを抑えながら、散らばり、蹴散らされたモノや神棚の数々を片づけ、電気を消し、寝床に戻りました。
私もさすがに少々気が立ってしまいましたが、ほんの一瞬でも寂しさから解放され、ストレスも発散できたであろう胡ぶへいの「プススス……」というイビキが聞こえてきた時、全身の力が根元から抜けてしまったのは言うまでもありません。
◆「大丈夫」と確信できた瞬間
当時、我々夫婦は揃って朝早く家を出て、夜遅くに仕事から帰ってくる生活を送っていたこともあって、たま胡との距離が詰まらないうちはケージから出せない事情がある中、胡ぶへいの「夜泣き」が少しでも収まるようにとあれこれ考えました。
我々がいない昼間はリビングから外が見える窓際に、そして夜は我々の枕元近くまでケージを移動させて、胡ぶへいの閉塞感を少しでも取り除きました。
寝る前にはおもちゃやじゃらしでたくさん遊ばせることで、疲れてぐっすり寝てくれる日もありました。
それから5日ほど経ったある夜、胡ぶへいのケージにはじめて、たま胡が近づいていきました。
極めて用心深い性格のたま胡ですから、ケージの入口が完全に閉まっていることをしっかり確認した上で、ケージを挟んで胡ぶへいと対峙します。
するとまもなく、
「フーーーーーーッ!!」
威嚇したのは、ビビリ猫だったはずの、たま胡でした。
さらにたま胡は、さりげなく胡ぶへいのお尻のにおいを嗅いで、去っていきました。
トライアル終了。
大丈夫だと確信した瞬間です。
性別の違う猫どうし。
その間にある感情は分かりませんが、たま胡が胡ぶへいのことを気にし始めたことで、今後ふたりの距離は少しずつでも詰まってきて、胡ぶへい自身の寂しさや孤独感も薄れていくはず。
そう願うばかりの私でした。
そして幸いにも、たま胡と胡ぶへいの関係は私の願いに沿うものとなり、ケンカや追い掛けっこなど、いろんな形でのコミュニケーションをいろんな距離感で繰り返しながら、お互いのことを知ろうとする日々が現在も続いています。
ここにはごはんもお水も寝る場所もあって、ボクを受け入れてくれる人も猫もいる。
寂しくない。もうボクは、ひとりぼっちじゃない。
そう感じてくれていればいいな、と思いながら、日当たりのいい場所でひなたぼっこする胡ぶへいの姿に、私はいつも、平穏な毎日の喜びを分けてもらっているような気がしています。
松尾 猛之(まつお たけし)
ねこライフ手帳製作委員会委員長。1級愛玩動物飼養管理士。
webライター、ペット用品メーカー勤務などを経て、2019年2月に愛猫のための生涯使用型手帳「ねこライフ手帳 ベーシック」を発売。手帳の普及を通じて、人間が動物との暮らし方を自発的に考えていくペットライフの形を提案している。自宅では個性的な保護猫3頭に振り回される毎日。